映画『アラモ』何処から何処までもジョン・ウェインの映画です!!

この映画『アラモ(The Alamo)』は、1960年に公開された西部劇映画で、テキサス独立戦争中の1836年に起こったアラモの戦いを題材としています。ジョン・ウェインが主演・監督・制作を兼任し、ユナイテッド・アーティスツが配給しました。

目次

 

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1.製作開始前

ジョン・ウェインがアラモの戦いに関する映画の製作に乗り出したのは1945年でした。彼は脚本家ジェームズ・エドワード・グラントを雇って、脚本の準備を始めました。併せて、ジョン・フォードの息子であるパット・フォードもアシスタントとして雇われています。

しかし脚本がほとんど完成する頃になって、撮影予算の上限300万ドルをめぐってウェインとリパブリック映画社長ハーバート・イェーツが衝突しました。結局、ウェインとリパブリック映画の間には大きな確執が生まれ、ジョン・ウェインが去ったことで映画の企画自体も中止されてしまいました。


2.製作について

ジョン・ウェインとプロデューサーのロバート・フェローズは制作会社バジャック・プロダクションを設立します。1952年に設立された際はウェイン/フェローズ・プロダクション(Wayne/Fellows Productions)という社名でしたが、1956年に映画『怒涛の果て』に登場する架空の貿易商社の名前を取ってバジャック・プロダクション(Batjac Productions)に改名しました。

ジョン・ウェインはアラモに関する映画について、当初は監督と製作の立場から参加して出演は行わないつもりでしたが、彼が出演しない場合を前提に算出された推定興行収入は決して利益を保証し得るものではなく、撮影予算の支援は得られませんでした。

1956年、ユナイテッド・アーティスツ(UA)との契約を結び、この中で、UAは250万ドルの予算提供と宣伝を担当し、同時にバジャック側に対しては150万ドルから250万ドルの拠出とウェインの出演という条件を課しました。また、ある裕福なテキサス人もテキサスでの撮影を条件にバジャックに対する援助を申し出ました。


3.演出・監督について

ジョン・ウェインの師匠でもあったジョン・フォードは撮影班に招かれませんでしたが、それでも撮影に関与しようとしばしば圧力を掛けました。やがてフォードは第2撮影班を率いて勝手な撮影を始めましたが、ジョン・ウェインは自らの監督としての権威を維持する為に彼らを追い出しました。

こうした経緯から、フォードの撮影した映像は一切使用されていないにも関わらず、しばしば誤って「フォードはこの作品におけるノンクレジットの協同監督」と記載されることになっています。

映画に携わった人々は、長い会話シーンを好む脚本家ジェームズ・グラントを重用していたものの、ジョン・ウェイン自身は非常に知的で才能のある監督だったと述べています。歴史家のランディ・ロバーツやジェームズ・オルソンは彼の監督手法に関して、「有能、しかし目立とうとはしない」と評しています。

一方、ウィドマークは彼や他の役者に対してジョン・ウェインが演技指導を行なったり、キャラクターに関する独自の解釈を述べるのを好んだ点が不満だったといっています。

 

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4.キャスティング

1)主演の決定

当初、ジョン・ウェインは演出に集中するべく端役に過ぎないサム・ヒューストン将軍を演じる予定でした。しかし先述の通り、出資者らは「ジョン・ウェイン映画」である事を期待していた為、ジョン・ウェインに主演を務めるように求めました。

結局、ジョン・ウェインはデイビー・クロケットを演じることに決まり、ヒューストン将軍の役はリチャード・ブーンに引き継がれました。ジョン・ウェインはジム・ボウイ役にリチャード・ウィドマーク、ウィリアム・トラビス役にローレンス・ハーヴェイをキャスティングしました。

 

2)トラビス役の悩み

ハーヴェイが選ばれたのは、ウェインが英国の舞台俳優を高く評価していたからでした。またハーヴェイ自身が最も緊張したのは、テキサス訛りでシェイクスピアの引用を行うシーンだったそうです。

 

3)ファミリー出演

他の役割は息子パトリックや娘アリサなどウェインの家族やその他の親しい友人に割り当てられました。後に西部劇のソングライターやスタントマンとして名を知られるようになるルディ・ロビンスもテネシー義勇兵としてわずかながら出演しています。

 

4)仲違い

撮影が始まってまもなくして、ウィドマークは役柄への不満から降板を示唆するようになりましたが、法的措置になる寸前に映画完成まで協力することに合意しました。また撮影中、彼は脚本家のバート・ケネディに頼んで台詞のいくつかを書きなおさせたそうです。

 

5)売り込み

当時、歌や踊りの仕事から脱却したかったサミー・デイヴィスJr.は奴隷役での出演をウェインに打診しています。各方面からの反対を受けてデイヴィスの出演は取り消されましが、これはデイヴィスが白人が女優のメイ・ブリットと付き合っていたことと少なからず関係があったそうです。


5.撮影セット

撮影セットは、テキサス州ブラッケットビル近郊のジェームズ・T・シャーハンが保有する牧場の中に、再現されたアラモ伝道所が設置されました。このセットは撮影後も残され、後にアラモ村と呼ばれるようになりました。

建築業者チャット・ロドリゲスがセット建築の責任者で、建築に先立ってブラッケットビルの町からセットまでのおよそ14kmに道路舗装を行いました。さらに一日あたり12,000ガロンの水を使用するという前提で6つの井戸と下水道を設置し、5000エーカー分の馬の囲いも設置しました。

ロドリゲスと共に働いたアートデザイナーはアルフレッド・イバラである。ランディ・ロバーツやジェームズ・オルソンは「映画史上最も本格的な撮影用セットではないか」と記しています。

アラモ伝道所の壁を作る為の15,000個を超える日干しレンガも、全て手作業で製造されました。最終的に2年以上を掛けて完成した伝道所は本物の3/4程度の大きさで、『アラモ』撮影後も100作を超える西部劇映画で使用されることになりました。

 

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6.撮影

1)開始

撮影は1959年9月9日に始まりました。フランキー・アバロンら何人かの俳優は、テキサスでの撮影と聞いてガラガラヘビを恐れていたそうです。またコオロギが俳優の肩に止まっていたり、カメラの前に飛び込んできたり、またはその鳴き声のせいでNGテイクとなる事も多かったそうです。

 

2)根性

ハーヴェイは大砲の反動を忘れており、降伏勧告への答えとして砲撃を行うシーンで砲撃を行なったところ、反動で後退した大砲が彼の足を踏み潰し、骨折させました。しかし、ジョン・ウェインが「カット」と叫ぶまで、ハーヴェイは悲鳴を上げませんでした。この件でジョン・ウェインは彼のプロフェッショナリズムを称賛しました。

 

3)大作に

撮影は予定より3週間延長され12月15日に終了しました。使用されたフィルムの総延長は560,000フィートにも及び、総撮影シーン数は566シーンにもなったということです。このフィルムは最終的に3時間13分に編集されました。


7.ストーリー

1)将軍の指令

1836年、当時メキシコ領のテキサスの原野に、各国から多くの移民が入植していましたが。メキシコの独裁者サンタ・アナが土地没収と、重税を課す宣言をしました。テキサ人は独立運動を起こし、サム・ヒューストン将軍(リチャード・ブーン)が指揮者に選ばれました。

サンタ・アナは討伐軍を派遣しましたが、義勇軍はまだ組織が完全でなく、敵軍をサン・アントニオでくいとめ、時間をかせぐ必要がありました。ヒューストン将軍はジェイムズ・ボウイ(リチャード・ウィドマーク)に、サン・アントニオ近郊のアラモ砦の陣地構築を命じました。

 

2)対立

しかしながら、ジム・ボウイは、酒びたりで仕事がはかどらず、将軍は後任に若い弁護士出身のトラヴィス大佐「ローレンス・ハーヴェイ」を送り、自分は義勇軍を募るため北方に出発しました。厳格で貴族的なトラヴィスと、大地主で親分肌のボウイはことごとくに対立しました。

 

3)デヴィ・クロケット登場

テキサスの危機を聞いたデヴィ・クロケットジョン・ウェイン)は同士とともにサン・アントニオにやってきました。その夜、クロケットはメキシコの美女フラカ(リンダ・クリスタル)の難を救い、町の教会に武器弾薬が隠されていることを聞きました。彼は偶然知り合ったボウイと協力してこれを分捕りました。

クロケットとフラカは恋仲になり、砦の戦略的価値についてボウイとトラヴィスの意見が対立し、クロケットが仲に入ってまとめました。

 

4)降伏勧告

サンタ・アナの軍隊がサン・アントニオに到着し、無条件降伏を要求しましたが、トラヴィスは拒絶しました。メキシコ軍は巨砲をもって砲撃を開始しました。

サンタ・アナの主力軍が到着し、砦内の婦女子の立退きを勧告してきました。砦の男たちは感慨無量の面持で、退去する人々を見送りました。ただディッキンスン大尉夫人だけは残留しました。

 

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5)攻防戦

メキシコ軍の攻撃に、砦の兵士の敢闘し、戦況は一進一退を続けました。ある晩、ボウイのところに愛妻が死んだ知らせがきました。トラヴィスは軍規違反と手紙をとりあげましたが、真相を知って彼に詫びました。

ボンハム大尉が援軍500がメキシコ軍に撃退されたという悲報をもたらしました。ボウイやクロケットは砦で討死にするのに反対しましたが、トラヴィスの死守の決意にうたれ、180名の兵士は砦を守ることになりました。

 

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6)敗北

6000のメキシコ軍は物量を頼み、総攻撃を開始しました。砦の兵士は次々に倒れ、トラヴィスクロケット、ボウイの獅子奮尽の甲斐もなく、それぞれ凄烈な戦死を遂げました。3月6日未明、アラモ守備軍は全滅しました。

ただ1人ディッキンスン夫人が生き残りました。サンタ・アナは夫人にロバを与え、砦の外に送りだしました。守備隊の勇猛果敢な活躍は、夫人の口から人々に伝えられました。

 

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8.音楽

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ディミトリ・ティオムキン

オリジナルのテーマ曲のほか、ディミトリ・ティオムキンが作曲しポール・フランシス・ウェブスターが作詞した『The Green Leaves of Summer』もメインテーマとして使用まし。この曲は何度かリリースされており、ブラザース・フォアによる録音がよく知られています。

オリジナル・サウンドトラック・アルバムはコロムビア・レコード、ヴァレーズ・サラバンド、Ryko Recordsからリリースされました。2010年には新規録音されたバージョンがTadlow MusicとPrometheus Recordsから発売されました。このバージョンはニック・レインが指揮するプラハフィルハーモニー・オーケストラによって演奏されており、未発表だったティオムキンの楽曲がいくつか含まれてます。

また、マーティ・ロビンスとフランキー・アバロンが歌った『Ballad of the Alamo』も本作のテーマ曲と捉えられています。

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ブラザース・フォア


9.時代考証について

本作では時代考証上の間違いや、あるいは意図的に無視された箇所が多く、またテキサス革命やアラモの戦いの原因に関する説明もほとんど行われていません。

アラモの研究者であるティモシー・トディッシュは「『アラモ』には歴史的な事実に対応しうるシーンが一切ない」と語っています。歴史家ジェームズ・F・ドビーとロン・ティンクルは自身らの名を史実アドバイザーとしてクレジットしないように求めました。


10.評価・反応

『アラモ』は莫大な収益を上げましたが、それでも製作コストを賄うことは出来ず、結果的にウェインはいくつかの個人的な資産の売却を余儀なくされました。

『アラモ』はアカデミー録音賞(ゴードン・E・ソーヤー、フレッド・ハインズ)を受賞した他、アカデミー助演男優賞(チル・ウイルス)、アカデミー撮影賞(カラー部門)、アカデミー編集賞アカデミー作曲賞(ドラマ・コメディ部門)、アカデミー歌曲賞(歌曲部門, ディミトリ・ティオムキン、ポール・フランシス・ウェブスターの『The Green Leaves of Summer』)、アカデミー作品賞にノミネートされました。

こうした多くの部門におけるノミネートの背景には、『サイコ』や『スパルタカス』への対抗を意識したウェイン自身による熱心なロビー活動があったそうです。

ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは4つ星を付け、「まさに偉業だ。視覚、内容、どこをとっても『アラモ』は一流だ」と評しましたが、Time誌は「テキサスのように平坦」と評ています。

公開から数年後にレオナルド・マールティンは時代考証の無視と演説じみた台詞について『アラモ』の脚本を批判しましたが、一方でクライマックスの戦闘シーンを高く評価しました。

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本作はあまりにも大掛かりな広報キャンペーンが仇となり、多くの賞を逃したと考えられています。特にチル・ウイルスが独断で作成しバラエティ誌に掲載した広告はウェインからも怒りを買いました。

これは「アラモ守備隊が生還を望んだ時よりも強く、キャスト一同はチル・ウイルスのオスカー受賞を望んでいます」とか、「勝つにせよ負けるにせよ引き分けるにせよ、みなさんは私のいとこのようなものです」などという内容でした。

審査委員の1人だったグルーチョ・マルクスはこの広告を踏まえ、「親愛なるウイルス氏。あなたのいとことなった事を光栄に思います。けれど私はサル・ミネオに投票しました」というメッセージを送ったそうです(サル・ミネオも『栄光への脱出』からノミネートされており、ウイルスのライバルでした)。

ただし、本作の興行的失敗はあまりにも莫大な製作コストによるもので、映画作品としては非常に人気がある作品の1つでもあります。サウンドトラックアルバムは50年間に渡って販売が続けられています。その人気を反映するように、『アラモ』はしばしばパロディやオマージュの対象として引用されています。.


11.登場人物プロフィール

1)デヴィー・クロケット(デイヴィッド・クロケット

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クロケットフランクリン国グリーンコロニーで9人兄弟の第5子として生まれ、十分な教育は受けられなかったといいます。1813年には州の民兵として後の大統領アンドリュー・ジャクソンの下でインディアン討伐に従軍しました。

1826年、1828年1832年には合衆国下院議員にテネシー州から当選(1830年は落選)し、不法滞在者の権利獲得に尽力しました。1833年には自伝も出版し、一躍有名人となりましが1835年には落選しました。

クロケットは下院議員時代に親交を深めたサミュエル・ヒューストンにも影響され、1836年1月14日にはテキサス暫定政府との書類に調印しテキサス革命に正式に参加し、2月6日にアラモの守備のためサンアントニオに到着しました。

2月23日から開始されたアラモの戦いでは指揮官ウィリアム・トラヴィスの下、教会前面の木柵の防御を担当していました。

しかし、ジェームズ・ボウイの病状悪化や援軍が来なかったこともあり、3月6日にアラモは陥落しました。クロケットはメキシコ大統領サンタ・アナに捕らえられ、処刑されました。


2)ジム・ボウイ(ジェームズ・ボウイ)

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ボウイはケンタッキー州ローガン郡(現在のシンプソン郡)で1796年4月10日に生まれ、幼年期のほとんどをルイジアナ州で過ごしました。彼の家族は1800年に現在のミズーリ州マドリードへ移り、その後1801年にルイジアナ州カタホウラ郡に移っています。

米英戦争中、ボウイと彼の兄弟は、ニューオーリンズでイギリス軍と戦うため、コールマン・マーティン大佐のルイジアナ民兵隊に参加しました。1815年1月に二人がニューオーリンズに到着した時には戦争は終結していました。

1830年1月1日、ボウイと彼の友人のアイザック・ドノホはティバドーを発ちテキサスへと向かいました。2月20日に、ボウイと彼の友人はメキシコへの忠誠を誓い、そしてサンアントニオへと進みました。そこでもボウイは、収入をギャンブルで補いながら、時には借金もして、土地への投機を続けています。

1832年7月、 ネイチェズにいたボウイは、ナカドーチェスのメキシコ軍司令官、ホセ・デ・ラス・ピエドラスが、彼の地域の居住者すべてに武力で降伏するよう求めていることを耳にしました。メキシコ当局とアングロ市民の間の緊張は日増しに高くなってきました。

サンタ・アナは戦争の準備を始め、テキサスのアングロ住民が戦争へとかき立てるように、テキサスへ数多くのメキシコ軍部隊を派遣した。ボウイは主戦派の指導者、ウィリアム・トラヴィスとともに働き、戦争への支持を強め、東テキサスのいくつかのインディアンの村を訪れて、メキシコと戦う部隊を作るよう説得して回りました。

1836年1月、ボウイは30名の分遣隊と共にベハルに到着しました。1,500名の騎馬隊から成るメキシコ軍は、2月後半にベハルに到着し、テキサス軍に降伏を要求してきました。ボウイは拒否しましたが、2月24日には、おそらく進行していた結核のために倒れ、小さな部屋に幽閉されれました。メキシコ軍が攻撃した3月6日に、彼はアラモの防備兵の残りとともに亡くなりました。

ボウイはボウイナイフとして知られるスタイルのナイフを携行していたことでも有名でした。彼のフロンティア・スピリットあふれる物語で、彼はテキサスの歴史を彩る民衆の英雄のひとりとなりました。


3)ウィリアム・トラビス大佐

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サウスカロライナ州に11人兄弟の長男として生まれ、9歳からはアラバマ州で過ごしました。後に弁護士となり、その後はテキサス革命に参加します。1835年11月のサンアントニオの包囲戦では少数の騎兵隊を率いていたが、同年12月19日には騎兵隊長および中佐に就任、アラモ砦に配属されました。

1836年2月23日から開始されたアラモの戦いにおいてはジェームズ・ボウイが倒れた後全軍の指揮を担当していました。彼がこの包囲戦中にテキサス暫定政府に宛てて送った援軍を求める「勝利、もしくは死を」の手紙は有名です。しかし援軍は到着せず3月6日、メキシコ軍の一斉攻撃の時に大砲の隣で戦死しました。


4)サミュエル・ヒューストン将軍

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バージニア州シェナンドー谷のティンバー・リッジで生まれ、スコットランドアイルランドアメリカ人の出でした。テキサスの歴史における重要人物であり、初代および第3代テキサス共和国大統領を務め、テキサスが合衆国に加わった後は州選出上院議員、最後はテキサス州知事を務めました。

1835年からのテキサス独立戦争では、テキサス軍を率いてメキシコと戦い、1836年4月にはサンタ・アナ将軍を捕らえて独立を認めさせました。同年成立したテキサス共和国の初代大統領に選ばれ、1838年には一旦落選しましたが、1841年には再び大統領の座に就いています。

1861年南北戦争の勃発に先立ち、テキサス州アメリカ合衆国離脱及び南部13州からなるアメリカ連合国への加盟に反対し、連合国への忠誠を拒否して知事を辞職しました。流血を避けるため彼はユニオン軍による南部同盟の反乱鎮圧の申し出を拒否しました。代わりに南北戦争の終わりまでハンツビルに退き、そこで死去しました。


5)サンタ・アナ

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アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ・ペレス・デ・レブロン(Antonio López de Santa Anna Pérez de Lebrón, 1794年2月21日 - 1876年6月21日)は、メキシコの軍人、政治家で、1833年から1855年までの間に11回(7回と数える意見もある)も大統領に選ばれました。

有能な軍人ですが、政治家としては評価されていなくて、良くも悪くも、メキシコが生んだその時代を代表する英雄の一人でした。

彼はメキシコ独立後のさまざまな時期を通じて騒乱の40年間にわたり、さまざまな時に将軍か大統領でした。彼はメキシコの主要な港ベラクルスに「政治的農場基地」を建設しました。また、彼は陸軍の英雄でした。

すなわち彼は自身とその軍の栄光を追い求め、失脚するまでそれを再建しました。 勇敢で先取の気質に富んでいる一方で奸智にたけた政治家で、彼はそのようにしてメキシコを支配したために歴史家はその時代を「サンタ・アナの時代」と呼びました。

しかしながら歴史家はまた、彼は「もしかしたら国政を誤った人々の住まうメキシコの『黒いパンテオン』の最初の居住者」だと報告しています。 彼の中央集権主義者のレトリックと軍事的な失敗は、テキサス独立戦争始まりと1848年の米墨戦争のメキシコ割譲を招き、当時のメキシコの領土の半分の消失という結果をもたらしました。


12.ジョン・ウェインの思い入れ

本作にディッキンソン大尉の娘役で出演していたウェインの娘、アイッサ・ウェインは「私が思うに、『アラモ』の制作は父自身の闘争の1つだったのでしょう。それは強迫観念以上のもので、彼のキャリアにおいて相当に個人的なプロジェクトの1つでした。」と述べています。

ウェインの関係者の多くも、『アラモ』がウェインの政治的な立場を強く反映している事を認めており、台詞の多くは彼の見解そのものでした。

歴史家のランディ・ロバーツやジェームズ・オルソンは共和主義と自由至上主義への転換こそ本作に込められた最も重要なメッセージであると見ていて、これを裏付けするものとして、ウェイン扮するデイビー・クロケットの次の台詞があります。

「共和国。実に良い響きだ。人々が自由に暮らし、自由に話し、自由に行き来し、売り買いし、酔ったり醒めたりする。君もこれらの言葉には感動するだろう。共和国、胸が詰まる言葉だ。」

 

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13.まとめ

この映画は、ジョン・ウェインが、ジョン・フォードリチャード・ウィドマークをも押さえつけてこしらえて作った執念の映画ではありますが、観客をいかに感動させるかに徹した、最高のエンターティメントでもあります。

 

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