映画『ドクトル・ジバゴ』巨匠リーン監督による”愛こそすべて”なスペクタクル巨編です!!


この映画『ドクトル・ジバゴ(Doctor Zhivago)』は、1965年のアメリカ合衆国・イタリアの恋愛ドラマ映画です。監督はイギリスのデヴィッド・リーン、出演はオマー・シャリフジュリー・クリスティで、 原作はロシアの作家、ボリス・パステルナークによる同名小説『ドクトル・ジバゴ』からで、音楽はモーリス・ジャール、挿入曲「ラーラのテーマ」が有名です。

目次

 

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1.紹介

大スケールの骨太な映画を作らせたら並ぶ者なき巨匠デビッド・リーンが、戦争に分断されたロシアと愛に引き裂かれた人間の心を描いた、ボリス・パステルナーク原作の大河ドラマとなっています。
街頭の革命デモ、無人地帯に突撃する兵士、ウラルへ疾走する列車、氷雪に閉ざされたダーチャ(別荘)など、壮大な絵巻が展開されます。
主人公ジバゴにオマー・シャリフ、彼が生涯愛した女性ラーラにジュリー・クリスティが扮し、時代の荒波に翻弄される2人を熱演しています。
耳に残るモーリス・ジャールの旋律(アカデミー賞5部門獲得のうち作曲賞を受賞)、名場面の数々とともに記憶に焼き付いてきます。


2.ストーリー

1)プロローグ

ソビエト連邦の将軍、イエブグラフ・ジバゴ(アレック・ギネス)は、自分の腹違いの兄で詩人のユーリ・ジバゴ(オマー・シャリフ)の娘を探していました。やっと探し当てたのはトーニャ(リタ・トゥシンハム)という若い女性労働者でした。両親をほぼ知らずに育ったトーニャに、イエブグラフはトーニャの両親であるユーリと恋人ラーラ・アンティポヴァ(ジュリー・クリスティ)の物語を語り始めます。

 

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2)ユーリの生い立ち

ユーリは唯一の肉親でバラライカの名奏者の母と暮らしていましたが、ユーリが幼いうちに死別し、ユーリは形見のバラライカとともにモスクワのアレキサンダー・グロムイコ(ラルフ・リチャードソン)とアンナ(シオバン・マッケンナ)夫婦の家に身を寄せます。ユーリには類稀な詩作の才能がありましたが、養父の望み通り医学の道に進むことに。また、養父の娘トーニャ・グロムイコ(ジェラルディン・チャップリン)とも結婚を約束していました。


3)ラーラとの出会い

一方、同じくモスクワに住む美しい娘ラーラは二人の男の間で気持ちが揺れ動いていました。一人は恋人の青年パーシャ・アンティポフ(トム・コートネイ)で、「同胞愛と自由」を掲げロマノフ王朝の政治に反対する活動に加わっていました。

 

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そして今一人の富豪のヴィクトル・コマロフスキー(ロッド・スタイガー)は、母親アメリア(アドリエンヌ・コリー)の支援者であり愛人でもあるコムロフスキーと、ラーラは不貞の関係を築いていたのです。

 

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そんな中、ラーラの母が娘とコマロフスキーの関係を知って、自殺未遂で倒れてしまいます。世間体を気にしたコムロフスキーは、友人で医師のカート教授(ジョフリー・キーン)を呼び出します。今後の経験のためにと思い、カート教授は自分の教え子のユーリを同行させ、ラーラの家に向かいました。カート教授とともに治療を終えたユーリでしたが、思いがけずラーラとコムロフスキーがただならぬ関係にあることを知ってしまいます。


4)事件

コムロフスキーは二人の関係を何も知らないパーシャがラーラと結婚することを知ると、不純な女に高潔なパーシャは相応しくないとラーラを侮辱、強姦行為に及びます。心に深い傷を追ったラーラは、パーシャから預かっていた銃でコムロフスキーの殺害を考えつきます。

 

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クリスマスの宴で賑わう屋敷で、ラーラはコムロフスキーに向けて銃を放ちますが、それは失敗に終わります。

コムロフスキーの計らいのおかげで、ラーラは逮捕されることなくパーシャとともに屋敷を出ていきました。


5)戦争

その場に居合せたユーリはコムロフスキーの治療にあたりますが、ラーラを低く扱う言葉にユーリは不愉快さを感じていました パーシャはラーラの不貞を許し、二人は結婚、一人娘のカーチャとともに慎ましく生活していましたが、戦争の勃発でパーシャは前線へと送られてしまいます。

待てど暮らせど帰らない夫を探すために、ラーラは看護婦として前線に向かいました。そして、そこには、医師として従軍するユーリの姿もあり、再会を果たした二人はともに負傷者の治療に当たることとなりました。

負傷者が退院し、ラーラも病院を去ることとなり、ユーリはラーラに恋心を伝えようとしますが、それをラーラは制止し、二人は別れました。


6)革命

ユーリも間もなく帰郷しましたが、ロシア革命によって家の様子は一変していました。ユーリの屋敷には多くの労働者が住み着いており、ユーリたちは貧しい生活を強いられることとなりました。

 

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そこにユーリの腹違いの弟で共産党員のイエブグラフが現れ、兄の身を案じる気持ちからベリキノという街への移住を薦めましたこの助言に従い、ユーリら家族はベリキノ行きを決意します。


7)疎開途上で

吹雪の中を進む列車で、ユーリはストレリニコフという将軍が民衆を苦しめているという噂を耳にしますが、その正体は実はパーシャでした。

列車停止中にユーリは偶然パーシャと出会いますが、パーシャは妻への愛を失っていました。また、パーシャからラーラがユリアティンという街にいることをユーリは知らされ、それはベリキノからさほど遠くない街でした。


8)再会

ベリキノに着いたユーリら家族は自給自足でなんとか食いつなぐ毎日で、ユーリは塞ぎ混みがちになっていました。

そんなユーリに家族は気分転換にユリアティンに行くべきと薦めました。そして、雪が溶けるとユーリはすぐにユリアティンへ。

そこで、ラーラと再会します。


9)拉致から帰還

ユーリとラーラは密会を重ね深く愛し合いますが、罪悪感からユーリはラーラに別れを告げますその帰り道、ユーリはパルチザンに拉致され、医師として活動に協力することを強制されます。

そこからなんとか脱出しユリアティンにたどり着いたユーリを介抱したのは、ラーラでした。

ユーリの家族はすでにベリキノにおらず、ユーリの妻はラーラにユーリのバラライカを託していました。

ある夜コムロフスキーが二人のもとに訪れて、ともに国外に逃げようと誘いを持ちかけるも二人はこれを拒否、ベリキノで生きることを決めました。

ラーラと暮らす日々でユーリは創作意欲が復活、「ラーラ」というラーラへの愛を綴った詩を完成させます。


10)別れ

そこに再びコムロフスキーが現れ、ストレリニコフの失脚と死によって妻のラーラに危険が迫っていることをユーリに告げます。

ユーリ自身はコムロフスキーの助けを拒否したために、ラーラと娘のカーチャとバラライカだけが街を出ることになりました。つらい別れでしたが、お腹にいるユーリの子供のためにラーラは強く生きることを決意します。

 

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その後、ユーリはイエブグラフの援助で医師の仕事を得ましたが、心臓の病によって命を落としてしまいます。

ラーラと思しき女性の後を必死になって追いかけたことが、体に大きな負担となったためでした

イエブグラフはユーリの葬式でラーラと出会い、ユーリとの間に産まれた娘と生き別れたというラーラのために力を尽くします。

しかし、娘は見つかることはなく、ラーラは強制収容所で亡くなります。


11)エピローグ

両親の物語を聞き困惑するトーニャにイエブグラフは「力になりたい」と伝えますその言葉を受けるかどうか考える時間を与えられたトーニャは、ひとまずその場を去ることになりました。

そのとき、イエブグラフはトーニャの手にバラライカがあることに気づきます。

トーニャに付き添う恋人と思しき青年曰く、トーニャはバラライカの名人で、それも習ったことはないといいますイエブグラフは「血筋だな」と誇らしげな表情を浮かべ、二人を見送りました。

 

3.四方山話

1)壮大なる昼メロ

デヴィッド・リーンは、『アラビアのロレンス』に続いて組んだ脚本担当のロバート・ボルトに、長大な原作の内容を絞り込んでいくに当たっては、“愛”を軸にするよう指示を出しました。リーン自身が本作に関して、「革命は背景にすぎず、その背景で語られるのは、感動的な一個人の愛情物語である」とまで言い切っています。極言すれば、「愛こそすべて」というわけで、結果的に、“壮大なる昼メロ”などとディスられるのも、ある意味致し方のないことだったかも知れません。


2)ノーベル賞

パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」は本国ソ連では、当初予定されていた出版が中止になりながらも、1957年11月にイタリアで翻訳版が出版され、翌58年10月には、「ノーベル文学賞」が与えられている。当初は「ノーベル賞」の受賞を喜んだというパステルナークでしたが、スウェーデンでの授賞式に赴けば、ソ連には「2度と帰国出来ない」と脅され、受賞を辞退せざるを得なくなりました。
ただし、ノーベル委員会はこの辞退を認めておらず、パステルナークの名前は受賞者として記録されています。


3)ロケ地

本作での撮影は、ロシアではなく主にスペインで行われました。原作が発禁になっていたため、ソ連政府からは当然撮影許可が下りず、撮影隊は夏のスペインに厳寒のロシアを再現することとなりました。大理石の塵やプラスチックで人工雪を作り、パルチザンの騎馬隊が凍った湖の上を驀進していく最大の見せ場は、乾燥した川床の上に鉄のシートを敷いて撮影されました。ユーリとラーラが最後の日々を過ごす”氷の宮殿”を覆うのは、蜜蝋でした。
なお、ウラル山脈をモデルにした山々などは、カナダで撮影されました。


4)1965年の映画

当時ハリウッドでは、2本の大作映画が話題を独占しました。まず、『サウンド・オブ・ミュージック』が3月に全米公開されると、当初の批評はイマイチだったもののチケットセールスは好調で、公開後4週目でボックスオフィスのトップになり、12月になると、『007 サンダーボール作戦』が予想通りヒットする一方で、デビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』は、批評も興行成績も芳しくありませんでした。

静止画像をバックに流れる開映直後のオーバチャー(序曲)と、インターミッションを挟んだ3時間20分の長すぎる上映時間が、その理由として挙げられましたが、作品賞を始め7個のオスカーに輝いた、リーンの前作『アラビアのロレンス』(1962年)の上映時間が3時間40分だったことを忘れたかのように、批評家たちもその長さに対して不満を漏らしたものでした。しかし、同時に彼らは作品全体に漂うロマンチズムと大自然雄大さを高く評価していました。

その後、『ドクトル・ジバゴ』に異変が起き、『アラビアのロレンス』に続いてモーリス・ジャールが作曲したメインスコア「ラーラのテーマ」がヒットしたこともあり、観客が劇場に押し寄せ始めたのです。ジャールは両作でアカデミー作曲賞を受賞しています。


5)鬼監督

ラーラ役のジュリー・クリスティは、完璧を求めるリーンから受けるプレッシャーに耐え切れず、一旦は現場を離れてしまいます。やがて、再び演技する意欲を取り戻した彼女は撮影に復帰し、作品完成後には、リーンとの関係が良好であることをメディアに伝えました。しかしその後、クリスティが再びリーンと組むことはありませんでした。

ジバゴ役の第一候補でありながらも、監督からのオファーを断ったピーター・オトゥールも然りで、オトゥールもまた、『アラビアのロレンス』で延々1年4ヶ月もの間撮影に拘束された経験もあり、『アラビアのロレンス』以降はリーンから演出を仰ぐことはありませんでした。

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余談ながら、ジバゴを演じるオマー・シャリフは、エジプト人のルックスを隠すために髪にアイロンをかけ、額の生え際を約5センチほど剃りあげ、皮膚にはワックスをかけて日々ロシア人に変身するのですが、数分置きに滴り落ちる汗をメイク担当が拭き取らなければならなかったようです。


6)お手本

監督デヴィッド・リーンは、かのスティーヴン・スピルバーグが最も尊敬する「巨匠」です。その監督作品の中でもスピルバーグは、『アラビアのロレンス』(1957年)と並べて、『戦場にかける橋』(1962年)と本作『ドクトル・ジバゴ』は、自作を撮影する前に必ず見直す作品だと語っています。

 

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4.まとめ

ドクトル・ジバゴ』『サウンド・オブ・ミュージック』この2つの作品には共通点があります。偶然か否か、どちらもスタートの出遅れをスタジオのマーケティングと観客の口コミによって取り戻し、ロングランヒットとなったこと。

そして、なにより、センセーショナルなサウンドトラックと迫力あるロケーション。さらには、戦乱の世にあって、危険を冒しても個人の思いを貫いた人々を描いた、人間ドラマであることです。