『西国三十三所』車で巡礼、古希まじかCOPDオジサンの旅!【紀行遍8・二十二、二十三、二十四番】

西国三十三所巡礼も佳境に入ってきて、最終に予定している30番宝厳寺と33番華厳寺を除けば、最難関の4番槇尾寺と大阪市内4寺と京都市内4寺を残しました。

最難関の4番槇尾寺の肉体的難関はともかく、市街地の2ヶ所は、日常片側1車線追い越し禁止の道しか運転しないものにとって難関以外にほかありません。

そんなこんなで、今回は、中山寺の駐車場に不安を覚えつつ大阪の3寺を廻ることにしました。

目次

 

 


22番 総持寺

山門

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総持寺の本尊千手観音様は、「亀に乗った観音様」として有名で、子育て観音様、火除け、厄除け観音様と呼ばれています。

また、開山藤原山蔭卿は本尊像立に際し、千日間にわたり仏師に料理を御供えした縁により我が国包丁道の祖として祀られています。毎年4月18日には、藤原山蔭卿の御宝前において、伝統の「山蔭琉包丁式」が行われます。

 

1.アクセス

所在地 大阪府茨木市総持寺1-6-1
連絡先 072-622-3209

交通
JR京都線 JR総持寺駅下車徒歩約5分
阪急京都線 総持寺駅下車5分
名神高速道路茨木ICより国道171号線を高槻・京都方面へ約15分

市街地のど真ん中にありますがなんの問題もなく駐車場に到着できました。

拝観時間 6:00〜17:00
納経時間 8:00〜17:00

拝観料   無


1)駐車場

普通車約20台 300円~

  山門に隣接しています。

2)境内図

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2.縁起

御本尊 千手観世音菩薩 創建 寛平2年(890年)

承和年間(834-847年)、藤原高房が任地の太宰府に向かう途中、息子の政朝が川に落ちてしまいましたが、翌朝、政朝が大きな亀の背中に乗って帰ってきたといいます。この亀は高房が前日に漁師から買い取り、川に放した亀でした。

喜んだ高房は唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼みました。数十年後、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻まれた香木が流れ着いたが、この時、高房は既に亡くなっていました。

中納言になっていた政朝は、香木を持って都に行き仏師を探しましたが優れた人が見つからなかったので、長谷寺に行き観音に祈ったところ、童子が現れました。童子はこの香木を材とし、亀に乗った千手観音を刻んだといわれています。

仁和2年(886年)にこの仏像を本尊として祀ったのが総持寺の創始と伝えられています。

 

3.みどころ

1)山門

山門は楼門形式の堂々とした立派な建物で、現在の総持寺の規模は特に大きいとはいえませんが、元亀年間(1570-72年)に織田信長によって焼き尽くされるまでは非常に規模の大きな寺だったらしく、総持寺の南側の道路から遠望した山門を眺めると、遠目にもかつての大寺の面影を偲ぶことができる造りであるのがわかります。


2)本堂

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山門内側の広場奥正面に豊臣秀頼が再建したといわれる本堂が建てられています。本堂を離れた位置で正面から見ると屋根の大きさが目立ち、全体として背の高い建物に見えます。全体として見た本堂は特別に巨大な建物ではありませんが、歴史を感じさせる風格を持っています。

本堂と山門を結ぶ線上に大きな「灯籠」が建っていますが、これが印象的でです。

 


3)庖丁塚

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総持寺の開基、政朝は料理の名人でもあったといわれており、魚に直接手を触れないで箸と包丁でだけで魚をさばくという山蔭流庖丁の元祖であり、日本料理中興の祖とされています。

 

4)普悲観音
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総持寺は、ぼけ封じ「近畿十楽観音霊場の第六番札所」になっており、本堂裏手に普悲観音堂が建てられています。普悲観音堂の入ったところ中央に、独特の金属光沢を持ったぼけ封じ観音の普悲観音像が安置されています

普悲観音像の周囲、堂の壁面に沿って西国三十三ヶ所と四国八十八ヶ所の各札所の本尊を刻んだ小さな石仏像がとり囲んでいます。

 

 

 


23番 勝尾寺

山門

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「勝ちダルマ」の寺「勝運の寺」として知られる古刹です。勝運信仰の歴史は古く平安時代まで遡り、境内には勝運成就したダルマが所狭しと奉納されています。

山門より見上げる八万坪の境内は壮観で、特に桜、シャクナゲアジサイ、紅葉など季節の花木が咲き誇ります。

 

1.アクセス

所在地 大阪府箕面市粟生間谷2914-1
連絡先 072-721-7010

交通
・JR大阪駅 又は 新大阪駅より地下鉄 御堂筋線千里中央下車、阪急バス4番から北摂霊園行き 勝尾寺山門前下車
名神高速道路「茨木インター」より国道171号線経由、「清水」交差点右折(約15分)
近畿自動車道中国自動車道名神高速道路「吹田インター」より中央環状線国道423号線経由、「白島」交差点右折、「栗生外院」交 差点左折(約10分)
中国自動車道「池田インター」より中央環状線国道423号線経由、「白島」交差点右折、「栗生外院」交差点左折(約10分)

どちらから登っても降りても、けっこうなワインディングロードになります。

拝観時間 平日 8:00〜17:00/土 8:00〜17:30/日祝 8:00〜18:00
納経時間 同上

拝観料  400円

 

1)駐車場

普通車約350台 500円~

  第一・二駐車場とありますが第一駐車場が近く、第二もそんなに離れていません。

2)境内図

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2.縁起

御本尊 十一面千手観世音菩薩 創建 神亀4年(724年)

双子の兄弟、藤原善仲と善算が神亀4年(727年)に庵を結び修行しているとき、一人の修行者に出会います。この修行者は光仁天皇の皇子、開成(かいじょう)皇子でした。

兄弟は般若経の書写を開成皇子に託し、相次いで世を去りました。開成皇子宝亀6年(775年)に書写を完成し、堂を建てて経を納め、十一面千手観世音菩薩を安置し、この寺を『弥勒寺』と命名したとされています。

その後、行巡上人の代に、清和天皇の病気治癒の祈祷を行い、天皇の病が癒えたことから、寺の法力が王に勝ったということで、天皇が『弥勒寺』を『勝王寺』に改名したといいます。

しかし、寺側はあまりにも畏れ多いとして、『王』を『尾』に変え『勝尾寺』としたと伝えられています。以来、源氏、足利氏など諸将軍が勝運を祈願したところから、本寺は勝運信仰の寺として歴史的にも名をとどめることになり、現在もなお、勝運祈願のため本寺を訪れる人が多くなっています。

 

3.みどころ

1)山門

花の茶屋の左手角の入口で拝観料を払い、通り抜けて境内に入ると、直ぐ前に楼門様式で山号である「應頂山」の額が掲げられた大きな山門が見えます。

この山門は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼によって再建されたもので、その後修復が行われ直近では平成8年(1996年)に修復が完了しています。


2)本堂

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本堂は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼によって再建されたといわれています。その後、何回か修復されていると思われますが、見た感じから朱色も鮮やかで最近修復されたのがわかります。直近の修復は平成11年(1999年)に完了してます。この修復により再建当時の姿によみがえったそうです。

 


3)二階堂

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勝尾寺真言宗の寺でありながら、浄土宗の開祖とされる法然上人と深い関係があります。法然上人は既成の宗教集団から迫害を受け、四国に流されましたが、有力な帰依者が多かったことから、約1年で配流が解かれました。しかしながら、直ちに京に戻ることは許されなかったそうです。

法然上人は承元2年(1208年)からこの二階堂に逗留し、京に戻ることが許されるまで約4年間修行した場所とされています。

法然上人は京都に戻った翌年、当時としてはかなりの高齢である79才で死去したようです。


4)厄祓い荒神

この荒神堂は日本最初の荒神社とされており、古来よりこの社の威力は各地に知れ渡っていると言われ、その霊験は数知れないほどであるといいます。

石段参道を上がりきると「勝ちダルマ奉納棚」の前に着きます。この棚には大小様々な多くのダルマが納められていて、 選挙に立候補し当選した人、競馬や競輪で勝った人、スポーツでライバルを制した人など、願いが叶った勝ちダルマを奉納します。

この「勝ちダルマ奉納棚」以外にも、境内にはあちこちに置かれたダルマを見ることができます。

 

 

 

24番 中山寺

山門

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中山寺の「鐘の緒」は、出産の無事安泰を祈る「安産の腹帯」として、本邦随一の霊跡と、古来よりその伝統をもち、深く信仰されてきました、 ことに幕末には、中山一位局が当山の鐘の緒を受け明治天皇を御平産されてより、明治天皇勅願所として霊徳をたかめ、「安産の寺」として名高く、安産を祈る人々が全国から腹帯を戴きにまいられます。

1.アクセス

所在地 兵庫県宝塚市中山寺2丁目11-1
連絡先 0797-87-0024

交通
・阪急「中山観音」駅から徒歩1分
・JR「中山寺」駅から徒歩10分

宝塚インターチェンジを出て川西方面(東)へ、約500m先の安倉中交差点を左折し(北へ)、約1km先の中山寺西交差点(右側にダイエーがある)を右折すると、阪急中山観音駅 南側へ出ます。
中山寺の山門付近の道は道幅が狭く、車同士のすれ違いが困難です。


拝観時間 無
納経時間 9:00〜17:00

拝観料  無

 

1)駐車場

  無  

  但し近隣に有料Pが多数有ります。

 山門の少し西側にある中山寺参拝者用民間駐車場は、中山寺から最も近い場所にあると言われている周辺駐車場です。駐車場からあまり歩きたくない人は、こちらの駐車場をチョイスしましょう。しかしながら10台ぐらいのキャパしかなく、運が良ければということになるかも知れません。

 

2)境内図

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2.縁起

御本尊 十一面観世音菩薩 創建 推古天皇時代(593~628年)

聖徳太子四天王寺を建てるのに適した土地を探しているとき、太子に滅ぼされた物部守屋が悪鬼となって現れましたが、太子は「菩薩様、私をお守り下さい」と祈ると悪鬼は退散しました。

その夜、仲哀天皇の妃、大仲津姫の「この地より北に紫の雲のたなびく地がありますので、その山に寺を建て亡き人々をお祀り下さい。悪鬼も鎮まるでしょう」という声が聞こえ、このお告げに従い、聖徳太子は、推古天皇の代(600年頃)にこの寺を開創したといいます。
中山寺の創始に関しては、上記に類似した伝説が幾つかあるらしく、聖徳太子によって滅ぼされた物部守屋の霊を鎮めるためと、仲哀天皇の妃、大仲津姫と二人の皇子、香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王の供養のために推古天皇の代(600年頃)に聖徳太子が開創した、という説が強いようです。

 

3.みどころ

1)山門

山門は、徳川家光が再建したとされ、「望海楼」とも呼ばれます。昔は、この山門の上から遠く海を望む事ができたと言われています。

 


2)本堂

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聖徳太子が創建して以来、火災や戦火により堂宇はその度に焼失してきているようですが、現在の本堂は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって再建されたものであるとされていて、桃山時代の代表的な仏堂建築であるといいます。この「本堂」は平成7年の阪神大震災の被害を殆ど被らなかったようです。

内陣に祀られている本尊「木造十一面観世音菩薩立像」は女人済度を悲願としたインドの王妃、シュリマーラー(勝鬘夫人)が自らを彫った霊像といわれています。また、両脇侍二体は後白河法皇の寄進によるとされている十一面観世音菩薩であり、本尊と共に十一面観世音菩薩が三体並んでいる珍しい形式といわれています。

 

3)中山寺古墳・石棺
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この「古墳」は横穴式石室で、羨道の奥の玄室には別名「石の櫃(からと)」と称されていて「石棺」が安置されています。石棺はくり抜き式家形で、その大きさは幅約1m、長さ約1.8m、高さ約1.2mとされています。

長谷寺を開き法起院に隠棲した徳道上人が仮死状態になったとき、冥土の閻魔大王から授かったという宝印を中山寺に埋めたという伝説があって、それによれば、その宝印を埋めたのがこの「石棺」の中といわれ、約270年後に花山法皇によって掘り出されるまで、この「石棺」の中で眠り続けたとされています。

花山法皇はこの宝印に基づき、西国三十三ヶ所を再興したとされていますが、宝印がこの寺に埋められていたということから、かつて、この中山寺が西国霊場の第一番札所だったこともあります。


4)大師堂

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「本堂」と「護摩堂」の間に石段が設けられており、石段を上がると「大師堂」に着きます。ここには弘法大師が祀られており、西国三十三所の砂が置かれています。参拝しながらこの砂を踏んで廻れば三十三所を巡礼したのと同じ功徳が得らられると伝えられています。


まとめ

Googl mapで所要時間を見積もるものの、往路は、さすが大阪の通勤時間帯です。1時間近く遅れ。復路も運悪く見舞われた集中豪雨の影響か、けっこうな渋滞に遭遇し、1時間以上遅れました。

従って、思いのほか時間がかかりましたが、久しぶりの都会の道路もひやりとすることもなく帰宅することができました。